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  3. 松尾芭蕉と忍者を生んだ江戸を支えた要衝の地 三重県伊賀市/伊賀上野
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三重県伊賀市は、忍者発祥の地として知られ、上野公園には史跡のほかに忍者が体験できる施設がある。また伊賀は俳人・松尾芭蕉を生んだ郷土。江戸時代に活躍した忍者と芭蕉の足跡を訪ね、歴史の舞台を垣間見てみよう。
くのいちが忍者屋敷のからくりと仕掛けを実演しながら案内してくれる
伊賀流忍者博物館
所在地:三重県伊賀市上野丸之内
TEL:0595-23-0311
開館時間:9:00~17:00(受付終了16:30)
休館日:年末年始
入館料:700円(小人400円/忍者ショーは別料金1人200円)
服部半蔵や忍者ハットリくんなど、忍者発祥の地として有名な伊賀の里。
4月初めからゴールデンウィークにかけての土・日・祝日は、伊賀市内と中心部にある上野公園で「伊賀上野NINJAフェスタ2010」が行われる。

手裏剣打ち道場や吹き矢道場など、7つの忍者体験道場が開催されるほか、市中にはカラフルな忍者衣装を身につけた家族の参加者がたくさん集まり、町中が忍者一色となる。

大人も子どもも変身処で忍者衣装に着替えられるだけでなく、ペットにも衣装が用意されているので、楽しく忍者ごっこができる一大イベントなのだ。

忍者には伊賀だけでなく甲賀流もあるが、じつは両者の位置は地理的に近い場所にある。
岩尾山を境として北が甲賀(滋賀県甲賀市、湖南市)、南が伊賀(三重県甲賀市、名張市)に分かれている。

京都から東海道沿いに名古屋方面へ向かい、鈴鹿峠を越えると伊勢に至る街道へと続く。甲賀は鈴鹿峠へ向かう途中にあり、街道から入ったところにある飯道山は天台宗の修験道場として栄えていた。全国から多くの修験者によって情報がもたらされ、この一帯が軍事上の要衝地になっていたのは間違いない。

長享元年(1487年)、甲賀に活動拠点をもつ六角氏と第9代将軍足利義尚が戦った「鈎(まがり)の陣」では、山中に立て籠もった六角高頼が3年にわたってゲリラ戦を行い、結局、義尚は高頼を倒すことができずに病に倒れ、この世を去った。
このときの甲賀の兵法が、忍法へと発展していったと考えられている。

六角氏はのちに織田信長に制圧され、甲賀は信長の側につくが、伊賀はその後も反抗し続けた。

慶長16年(1611年)、藤堂高虎によってめぐらされた高さ30mの石垣は現存している。現在の天守閣は、昭和10年に復興されたもので、伊賀市上野公園のシンボルとなっている
伊賀上野城
所在地:三重県伊賀市上野丸之内
TEL:0595-21-3148(伊賀文化産業協会)
開館時間:9:00~17:00
休館日:年末年始
登閣料:500円(小人200円)
信長は、天正9年(1581年)、伊賀制圧のために圧倒的な数の軍を率いて伊賀を攻略する。
これは「第二次天正伊賀の乱」と呼ばれ、最終的に伊賀は信長に全滅させられることなく、講和を結ぶことで生きながらえることになる。

天正10年(1582年)6月、明智光秀により京都・本能寺の変で信長が倒されると、堺に逗留していた徳川家康は我が身の危機を悟り、伊賀を頼って領国の三河に逃げ戻る手引をしてもらう。

信長と伊賀の対立は、のちに豊臣秀吉と家康との対立へと引き継がれ、甲賀と伊賀の代理戦争の様相を色濃くしていくのだ。
伊賀市の「伊賀上野NINJAフェスタ2010」が行われる上野公園には、伊賀流忍者博物館があり、忍の道具や資料などが展示され、ぜひ立ち寄りたいスポットになっている。

そして、忍者博物館から歩いて1分、隣にはすこし風変わりな屋根を持つ建物がある。

笠をかぶったような独特な形状。内部に鎮座する芭蕉坐像は命日のみ閲覧できる
俳聖殿
所在地:三重県伊賀市上野丸之内
TEL:0595-21-3148(伊賀文化産業協会)
芭蕉翁生家
所在地:三重県伊賀市上野赤坂町304
TEL:0595-24-2711
開館時間:8:30~17:00
休館日:年末年始
入館料:300円(生徒・児童100円)
「俳聖殿」と名づけられた檜皮葺の木造建築物は、松尾芭蕉生誕300年を記念し、昭和17年(1942年)に建てられた。
 建物自体が芭蕉の旅姿を模しているとされ、命日である10月12日には「芭蕉祭」が行われ、伊賀焼の等身大の芭蕉坐像が公開される。
伊賀市は、松尾芭蕉の生誕の地でもあるのだ。

「五月雨をあつめて早し最上川」(最上川)
「閑さや岩にしみ入る蝉の声」(山寺)
   松尾芭蕉『おくのほそ道』

出羽国で生まれ育った筆者にとって、芭蕉が我が故郷を詠んだ歌は、とても馴染み深いものとなっている。
俳句から最上川や山寺立石寺の情景が浮かび、そこにある音や、光や、気温までをも感じとることができるのだ。

江戸時代に東北を旅した俳聖について、改めてその生涯をたどってみると、これまで知らなかった側面が見えてきた。

芭蕉の生まれが伊賀上野であることから、芭蕉=伊賀の密偵説をとる声がある。
「おくのほそ道」行も、北の有力者、伊達家の動向を探る目的があったという説である。

芭蕉が活躍した元禄時代(1688~1704年)は、江戸幕府の第5代将軍徳川綱吉が征夷大将軍(1680~1709年)として権勢をふるった時代と一致する。
忍者の力を巧みに利用した家康が元和2年(1616年)に没して50年以上。太平の世に忍者のネットワークがどれほど重用されたのかは定かではない。

松尾芭蕉は、正保元年(1644年)、伊賀上野に準武士待遇の農民のせがれとして生まれ、赤坂町(三重県伊賀市上野赤坂町)で幼少時代を過ごした。兄弟には一兄一姉三妹がおり、幼名は金作、のちに宗房と呼ばれた。

この生家は伊賀市内に今でも現存している。
生家の裏手にある「釣月軒」は六畳一間の小さな庵で、ここで宗房は処女句集『貝おほひ』を執筆し、帰郷した折には拠点となった。

13歳のとき、父の与左衛門が亡くなる。
19歳のころより、藤堂藩伊賀付侍大将の藤堂新七郎家に出仕。2歳年上の藤堂良忠に近習役として仕える。良忠は蝉吟の俳号をもっており、宗房はこの時期に作句をはじめたようだ。

このままいけば藤堂藩への仕官の道があると思われた。
だが、寛文6年(1666年)に良忠が死去。享年25歳。
仕官の道を断たれた宗房は藤堂家のもとを離れ、師匠の北村季吟のもとで俳諧を本格的に学ぶようになる。 

寛文12年(1672年)1月、初の著作となる松尾宗房撰・三十番発句合『貝おほひ』を編纂。伊賀上野天満宮に奉納する。
これを機に、宗房は知己を頼って江戸に下るのだ。29歳の春であった。

師匠の李吟より連歌俳諧の秘伝書を授けられた宗房は、自ら「桃青」と号し、江戸で徐々に頭角を現すようになる。

延宝5年(1677年)、34歳になった桃青は、この頃に宗匠立机を果たすための万句の興行を行ったと伝えられ、俳句の師匠として一門を率いるまでになった。

江戸俳壇で確固たる地位を築きつつあった桃春は、延宝8年(1680年)の冬に深川の草庵に居を移す。門人の李下から贈られた芭蕉の葉が春になって見事に繁ったことから、深川の住まいは芭蕉庵と呼ばれるようになる。芭蕉の俳号はこれが契機となった。

順風満帆と思われたが、39歳を迎えた天和2年(1682年)の年末に、のちに“八百屋お七の火事”と呼ばれる大火により、芭蕉庵は焼失してしまう。
芭蕉に救いの手をさしのべたのは、秋元藩家老の高山伝右衛門だった。芭蕉は35歳の伝右衛門の招きで、甲斐国谷村(山梨県都留市)に一時的に疎開する。

冬を越し、暖かくなると、芭蕉は江戸に戻った。幸いだったのは、総勢52名の寄進者により、芭蕉庵を再建する動きが起こっていたこと。
しかしもうひとつ、不幸な知らせが届く。
故郷の母の訃報だった。

秋には新築の芭蕉庵に入ることができた芭蕉は、年をまたいだ貞享元年(1684年)8月、門人の千里とともに江戸を発ち、伊勢を参拝し、伊賀に戻って亡くなった母の墓参をするための旅に出た。
「野ざらし紀行」の旅だ。

俳壇での地位とは裏腹に、芭蕉の旅はいつも哀しみに彩られていたように思えてくる。

郷里の伊賀上野で母の遺髪に涙し、越年してから江戸に戻った芭蕉は、これまでと同様に多くの句会に打ち込む。
だが一方で、これらの活動を境にして、旅を繰り返し、漂流する生活が本格的にはじまるのだ。

貞享4年(1687年)8月、44歳の芭蕉は、曽良と宗波を伴い、月見と鹿島神宮参詣を兼ねて鹿島へと旅立つ。
あいにくの雨のために、夜半には月見をすることはできなかった。雲の合間から見えた、明け方の月を望むだけであった。
この旅の始末は「鹿島紀行」として紀行文と句集がまとめられた。

この年の10月には江戸の芭蕉庵から渥美半島、熱田神宮へと向かい、伊賀上野で年を越した。
明けて貞享5年(1688年)、伊勢、吉野、高野山、和歌浦、奈良、大阪とめぐる旅は、「笈の小文」としてまとめられた。

さらに8月になると、門下の越人とともに、中秋の名月を見るために岐阜から木曾路を登って信濃国の更科へと向かった。長野から浅間山の麓をまわって江戸に戻るこの旅は、「更科紀行」として著わされる。

翌、元禄2年(1689年)、芭蕉の心はすでに東北への旅にあった。
春の訪れを待ちかねたかのように、3月末、門弟の曽良とともに約150日間にわたる「おくのほそ道」の旅に出発するのである。 

同年8月21日に、芭蕉は「おくのほそ道」の旅の結びの地、大垣で門弟に迎えられる。その後、伊勢に立ち寄ってから伊賀上野へと戻った。

東北への旅を終え、芭蕉は約2年にわたって、琵琶湖のほとりの大津・膳所など湖南や、京都、伊賀上野など畿内を行き来する生活を続けた。その間、自らの俳諧理論を成熟したものとして昇華させていった。

芭蕉は元禄4年(1691年)10月から元禄7年(1694年)5月まで、江戸・深川に新しく設けられた芭蕉庵での生活を続けた。
だがもうすでに、旅による紀行を著わすことはなかった。

元禄7年(1694年)5月、芭蕉は畿内を旅する途上で、かつて青年時代に愛した寿貞が深川の芭蕉庵で亡くなったことを書簡で知る。

9月8日、芭蕉は反目し合うふたりの門弟の仲を取り持つために、伊賀上野から大阪に向けて発った。
大阪に着き、門弟に2通の手紙を書いた10日の晩、芭蕉は悪寒と頭痛で病に倒れる。
10日ほど続いた熱は一旦は下がったものの、10月に入ると容態はさらに悪化した。

そしていよいよ死期が迫っているのを悟った芭蕉は、10日、弟子に口述筆記を頼みながら遺書をしたためる。

12日の夕刻、多くの門弟が見守る中で、芭蕉は51歳の生涯を閉じるのである。

芭蕉の俳句を詠むとそこはかとなく感じる“哀しさ”は、彼の境涯からにじみ出てくるものなのだろう。
そして旅もまた、その人の境涯を浮き彫りにし、確認する作業なのだと思う。

死を悼む門弟たちに囲まれ、生をまっとうした芭蕉は、いまわの際に幸せを感じていただろうか。

伊賀市上野公園までは、大阪からは阪神高速、西名阪経由で90分、名古屋からは名古屋高速、東名阪経由で80分ほど。上野公園に駐車場があるほか、その南の上野市駅周辺に点在している。ボランティアガイド「いがうえの語り部」をお願いするのもひとつの方法。
1時間半~3時間でまわれる、いくつかのコースがあり、15人にひとりの語り部の割合で案内してくれる。観光案内は無料だが、語り部ひとりにつき1日1000円の交通費は必要。詳細は下記ホームページを参照。
http://www.igaueno.net/sansaku/kataribe/index.html
< PROFILE >
長尾嘉津友
雑誌や書籍、ウェブなど、活字にまつわるメディアのプロデュースを手がけるエディトリアル・ディレクター。
旅行や写真が趣味であり、仕事。最近はクルーズに注目しています。
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